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嫁に来ないか

ミニコミ雑誌「嫁に来ないか」の編集長のブログです。2015年おはぎ号(無料!) noteにて発売中!

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ショッピングモールの駐車場に乗り付けて、自作したサンドイッチを食べながら開店時間を待っていた。隣の車はジープ。運転手はレイバンのサングラスをかけた男。私はサンドイッチを食べ終わるとマスクをかけ(花粉症対策)、けわしい顔の私と男はじっと玄関を睨み続けていた。開店の、軽やかな音楽が流れると同時に私たちは音をたてて車のドアを後ろ手に閉めると、店内に乗り込んで行った。どの店員もお辞儀していやがる。男はどこかへ消えて行き、私は勇ましい足取りで手芸店に乗り込んだ。

前回見かけた布を、お弁当袋とコップ袋にするぞ、と鼻息荒く手に取ったのだが、改めてよく見てみると、大柄なので、そんなに小さなものには向いていないように思えて来る。勢いが急激に失速し、私はトボトボと店内をうろついた。布、布、布。お弁当箱用に、布。手が伸びる柄は、どれも、お弁当向きではない気がした。気分転換にキルティングのキャラクターのものしか置いていないコーナーに目を向ける。一瞬で疲れ目になったが、ふと、サンプルとしてかかっている、キキララのキルティングバッグが目に止まった。かわいいなと思った。子どもが持っていたらきっともっとかわいい。先日読んでいたお弁当の本で、こどもの頃使っていたお弁当袋とランチョンマットの思い出について語っている人がいて、写真にはイチゴの柄のものが写っていて、それを見たときから思っていたのだが、やはり幼児期にはそういう子どもがかわいいと感じられるわかりやすく可愛い柄を使ってあげるべきなんじゃないだろうか。いつも私がキキララで、妹がキティだった。キキララのタオルケットが大好きだった。使いこみすぎてループが飛び出ていた。そういうことを大人になって思い出せるのは、親からのちょっとしたギフトなのではないか。私がステキだと思うものを与えるより、子どもが可愛いと思える子どもらしいものを持たせてやるべきなんじゃないか、そんなところで我を出すべきではないのでは?しかし、「子どもが可愛いと思う柄」なんて、はたして本当の意味で存在するのだろうか。それは、単なる「かわいい」の刷り込みなのでは?いや、大切なのは「かわいい」の本質ではなく、距離だ、幼いときに感じた「かわいいもの」はある種のランドマークで、そこからの距離があればあるほどそのランドマークは愛しくて、振り向くとポッと光るのだ、さみしい街灯のように…。いや、なにも私は私のように娘にも感じてほしいわけじゃない、ただ、子どもの頃嬉しかったことは大人になってもうれしいことで、うれしかったことを単純に自分の子にもしてやりたいというだけで…。

布は選べなかった。
どうしていつも、こんがらがってしまうのだろう。
なぜ、ソーイングはこんなにも私を内省させるのか。

アイロン定規なるものだけ買って家に帰った。折り返しの印つけのアイロンがけの際に便利だそうだが、仕事をしていたらあっという間にお迎え時間となり、使ってみるには至らなかった。